私の自衛隊 INDEX
ある空挺隊員のある日の訓練 自衛隊・・・ある女性自衛官の場合

自衛隊・・・ある女性自衛官の場合
Written by AKO姉 & Edited by TOM中尉
  • 女性自衛官(WACの場合)・・・不景気の世の中にあって、かなりの人気職業となった女性自衛官。高倍率で、なかなか合格・採用も難しいと聞く。
  • そんな、今や高嶺の花である「女性自衛官」について、AKO姉さんからミリタリーパワーズに貴重な体験をお寄せ頂きました。
  • カラー画像と画像コメントもAKO姉さんからのご提供です。
AKO姉さんのかわいいDear JSDFは→こちら
  • 現役女性自衛官やこれから女性自衛官を目指して受験される方には、先輩のお話として今後の参考に。自衛官OGの方には、懐かしい話として読んで頂ければ幸いです。
  • ここに記載されている文章および内容について、著作権は"AKO姉"さまにあります。よって無断転載無断使用無断複製二次利用厳禁いたします。
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◇教育隊のできごと

 ■小さい頃 から自衛隊の行事に親しみ、制服姿や作業服姿の自衛官を見てきたせいか、まったく自然に自衛官への道を志しました。

 T駐屯地第○教育連隊第3○6共通教育中隊第○区隊1班

 こんな長ったらしい名前の場所で、本当に自分がやっていけるのか不安にかられながら、同じく女性自衛官となった先輩に話を聞いたり、地連の広報官に話を聞いたりして、それなりに覚悟を決めて、12人部屋の自分の居室へ入りました。

 同じ志を持つ者同志とはいえ、当然ながら初対面。
 ぎこちない空気が目に見えるかのようにただよう居室の雰囲気に、一瞬、

 「あっ、道を間違った。」 と正直、思いました。

 当時髪が長かった私は、どうしても自分で髪を切っていくことができず、長いままで着隊しました。班長たちにも髪の長い方はいましたから、ちゃんと時間内に繋げば大丈夫、と安易に考えていました。でも結局、朝のいちばん忙しい時間に髪を繋ぐ間も惜しい、と思うようになり、隊内に呼ばれた美容師さんたちによって、洗面所でざっぱり切り落としてもらいました。髪を短くしたつもりの他の子たちも、髪が耳にかかっている子はすべて断髪式となりました。

 入隊式までは、被服等の受領やネーム付け(針地獄)、基本動作の教練などをしました。

 敬礼の教練をしてようやく、「ああ、自衛官になったんだな。」という実感が湧いてきました。

 入隊式では宣誓を命ぜられ、その様子を見た母親が「なぜか泣けてきたよ。」と言ったのが印象的でした。
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 ■入隊式 が終わってしまえば、「お客様」の時間はおしまい。新隊員としての本格的な教練が始まりました。

 体力づくりも大切な訓練のひとつですが、それまで安穏と学生時代をすごして来た身体を、いきなり酷使するようなことはありませんでした。

 最初は歩くような速度での駆け足から始め、それを徐々にペースアップさせながら距離を延ばし、ゆっくり身体を慣らしていきました。

 中でも思い出深いのは「自分の銃」を区隊長より授与された時でしょうか。銃の重みに、その責任感の重さを感じました

 基本教練や座学、そして銃の分解・結合やガスマスク装着訓練、掩体構築など、いかにも自衛官らしい教育が増えていきました。

 それにともなって「自分の時間」というものが減り、いかにしてその時間を効率よく使うかということについて、イヤというほど思い知ることになりました。

 戦闘服にアイロンをかけたり、洗濯をしたり、半長靴を磨いたり、やるべきことは山のよう。その時間を作るには、必然的に自分の時間を削るしかないわけです。次の集合時間までにしておかねばならないことはアレとアレと・・・!

 それまで、のんびり時間に追われることもなく、グータラと過ごしてきたツケが、ここにきて一気に回ってきたような感じでした。

 夜はまだそれでもマシな方でしたが、朝になるともう小さな戦争です。起床から点呼、清掃を終え、次の集合までにもうわずかな時間しかない!そこで削れる時間といえば、食事の時間しかないのは当然です。食堂まで駆け足して、誰ともなく声がかかります。

「時間がない、2分半で食べるよ!」

 班ごとの集団行動ですから、1人でも遅いと迷惑がかかります。もう必死で朝飯をかきこみましたね。
 その朝のクソ忙しい時間、水筒に水を入れながら、時間がない、どうしよう、と1人地団太を踏んでいると、他の班の友達が、

「akoさんのそんなところ、はじめて見たよ。」

 と驚いていました。そんなに始終冷静に見えてたんでしょうか。毎日「時間がない」パニックの連続だったんですけどね…
前期教育中、戦闘訓練の前後に必ずやったハイポート。
弾帯に引っ掛けてズルしたことしばしば。
前期教育の訓練検閲で、教育連隊長による点検。
わざと低い声で話しかけてくるので、惑わされず大声を出せとの指示でした。
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 ■隊容検査 などで事前に「検査がある」と分かる場合と違い、座学中や訓練中に、こっそり班長たちが各部屋を見回るのではないか、という緊張は常にありました。

 俗に「台風」と呼ばれるものですが、いざそれが来ると、その状況たるや惨憺たるものでしたね。
 毛布は飛び交い、まくらは吹っ飛び、テッパチは転がされ、制服はブッ散らかり、はてはキャビネットまで横倒し。泥棒でもここまでしないだろう、というくらいの惨状でした。

 前期教育中に三度ほど「台風」に見舞われましたが、回を重ねるごとに「散らかり度」「イタズラ度」が上がって、しまいにはテッパチになみなみと水が張られ、その中にゆで卵が沈み、その上花まで生けられていました。三階の居室から、布団を放り投げられていた班もあったようでした。
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 ■前期教育の最終段階である戦闘訓練は、想像以上に厳しいものでした。

 銃を持ったまま走るハイポートに始まり、匍匐(ほふく)前進の訓練など、ハードな訓練がこれでもかと繰り返されます。

 6月に入り、雨模様の日もあればカンカン照りの日もありましたが、自衛官に天気は関係ありませんしね。

 「姿勢が高い!それじゃ撃たれるぞ!!」

 「踵(かかと)を上げるな!」

 第五匍匐で踵を上げずに進むのは難しく、何度か踵を蹴りつけられましたね。匍匐にばかり気を取られると、持っている小銃の先が堆土に埋まったり、照準を下げるのを忘れたり・・・よくドヤされましたよ。

 力尽きて匍匐が出来なくなった隊員は、男性の先任班長に弾帯を引っつかまれて、堆土の線まで引きずられていったりしました。

 その苦しい訓練の最中、「伏せ」の姿勢へ入る時に足を痛めた時がありました。
「おまえはそっちで見学してろ。」

 炎天下の中で必死に訓練を続ける同期たちを見て、これまでにない罪悪感を感じずにいられませんでした。訓練は辛くて苦しいけど、自分だけこうしているわけにはいかない、という気持ちでいっぱいでした。

 だからこそ、班員みんなそろって、戦闘訓練検閲を終えた時の充足感は、たとえようもないほどの感動でした。

 感極まって涙が浮かんだのは私だけではありませんでしたから、皆も同じように感じたのだと思います。その時の記念の写真がありますが、みな戦闘服はヨレヨレ、汗まみれの泥だらけで、そして、いちばんいい顔をしています。

 そうしたたくさんの訓練の中で、班員と班長のつながりは大切です。でも、なぜか私たちの班だけは、それが大変希薄に思えました。お局的存在の我が班長殿は、新米区隊長に色々とアドバイス(指図?)をする参謀的立場でした。他の班長のように、班員に自分から関わろうとする意識はかなり低かったように感じます。そればかりか、他の班員の行動や言動が悪いからと、なぜか私たちに当たるんですね。班員全員がそれを不満に思っていて、とうとう内務ノート(毎日班長へ提出するノート)に班長への疑問をぶつけた班員も出たくらいです。

 班長と班員が語り合い、楽しげに笑う、そんな姿は結局、私たちの班にはありませんでした。その代わり、班員同士の結びつきは否応無に深まりました。「班長に文句なんかつけさせない!」、まったく逆の意識で、私たちは団結していたように思います。

 休日も一緒に遊びに出たり、部隊の近くに実家がある班員のところへ、班員全員押しかけたり。最初こそぎこちなく、意思の疎通すら思うようにいかなかったけれど、もうそんな時期があったことすら忘れるほどでしたね。
前期教育、最期の戦闘訓練検閲終了後のショット。
皆ぼろぼろ。
中列右から三番目が私。
修了式の合間に撮った、仲良しの同期との一枚。
以前の制服も好きでしたよ。
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 ■すったもんだの前期教育が終わり、これまたスッタモンダで職種が決まって後期教育となりました。

 郷里へ帰るには会計になるしかない、との区隊長の言葉を信じて、会計職種になることを決めた私。このときすでに、
「地連に行ってみないか。」
 との話が出ていて、もうわけも分からずにハイと返事をしていましたが、その地連について、このときは全くと言っていいほど何も知りませんでした。

 会計の教育先は、女性自衛官教育の聖地、▽▽駐屯地でした。

 本来であれば○○の会計学校へ行くはずだったのですが、女性自衛官増員にともなって居室の空きがなく、○○駐屯地と▽▽駐屯地に分けて教育をすることになったのでした。

 とはいうものの、内容的に差があるわけではありません。だから、というか必然的に、「▽▽駐屯地 VS ○○駐屯地」という図式ができるのも無理からぬことでした。

 東北勢だけが集まった前期教育と違って、今回は北は北海道、南は沖縄から、同期たちが集まっていました。その言葉の違いたるや相当なもので、特に九州勢の話は、まるで外国語を聞いているようでした(九州勢にとっては、東北の言葉が外国語だ、と言われましたけどね)。

 それに、前期教育と格段に違ったのは、個々の意識そのものでした。同じ釜の飯を食い、同じ訓練に精を出す者同志、あっと言う間に打ち解けました。前期で、仲良くなるまでに一ヶ月以上も費やしていたのが不思議なくらいでした。

 ▽▽駐屯地では、同じく通信と武器の教育も行われていましたが、彼女たちが朝晩走るのと違い、私たちは朝は絶対に走ることはありませんでした。そろばんや電卓を扱うため、朝っぱらから運動をしてしまうと、指先が震えたり集中力が衰えたりするから、というのが理由だったように思います。

 その代わり、二ヶ月半弱の教育期間中に、各人必ず100キロ走れ、と命ぜられました。訓練中に走る以外で、100キロです。どう計算しても、一日絶対3キロ以上を走らないと、目標は達成できません。

 だから、休日に休みたいとか、どこかへ出かける、とかいう場合は、それ以外の日に何キロか「走り貯め」をしておかないといけないわけです。夏も本番になろうという関東の暑い陽射しの中を、同期と一緒に頑張って走りましたよ。みんな真っ黒でしたね。
後期教育。
野営前の装備点検。
前列左から二番目が私。サイズの大きい戦闘服を支給され大変苦労した。
野営中の一枚。
前列左端が私。
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 ■忙しさにある程度慣れ、前期ほど慌しさを感じずに過ごす生活の中で、気持ちに余裕が出るのか、男性の班長や区隊長に思いを寄せる隊員も出てきたりしました。

 かくいう私も区隊長に憧れましたが、ドロドロした愛憎が渦巻いてどうこう、というようなものは全然なく、
「さっき区隊長に話しかけられたでしょー、いいなぁ!」
「へへへ、いいでしょー♪」
 というような、実にアッケラカンとした、別のいい方をすると「あんまり真剣じゃない」楽しみ方が主でしたね。

 野営訓練で区隊長付に私が選ばれたとき、同じく区隊長に憧れて「付」の座を狙っていた友達は、悔しがりながらも、
「区隊長の半長靴、一足は私に磨かせてよね。」
 と言ってました。実に爽快なものでした。

 その野営で、初めて夜間訓練を実施し、教育隊長がこう訓示されました。
「今から5分後、あそこにある灯りのところまでたどり着いてみろ。途中、班長たちに誰何(すいか)されて捕まったらアウトだ。無事たどりつけたらご褒美があるぞ。」

 戦車のキャタピラ跡が残る演習場で、それぞれに偽装を施した隊員たちが一斉に散っていきます。灯りの方向は丘になっていて、草が生い茂っているとはいえ、上から見下ろせば、うごめく隊員たちの姿が丸見えになりそうな感じでした。

 なるべく灯りから離れながら遠巻きに進んでいくと、案の定、隊長の声が響きました。
「おい班長、右手、右手から来てるぞ!そっちそっち、手前の草むらに二人くらい見えるぞ!」

 隊長が誰を見つけているのかも分からないのに、まるで自分の行動を言われているかのように錯覚し、かなり慌てた記憶があります。結局、誰何はされたものの捕まることはなく、私は崖から落ちそうになりながら、灯りのところまでたどり着くことができました。

 四十数名の隊員のうちで、ゴールできたのは私を含めて七人くらいだったと思います。あの時のご褒美は、ジュース・・・でした。結局みんなに配られましたけどね。あの演習場の名前は忘れてしまったのですが、そこから見た街の明かりの綺麗だったこと、今でも忘れません。

 その夏は記録的な猛暑で、日中は40度に近い焦げるような暑さでした。朝っぱらからすでに30度を越しているため食堂の牛乳が傷んでしまい、おなかをこわす隊員が続出したりしました。

 そんな中、水不足でトイレの水が出なくなったものだからたまりません。みんな休憩を見計らって隣の隊舎までトイレを借りにいかなければなりませんでした。
 そういう凄まじい暑さの中、コンクリート製のテニスコートでバレーをやろう、ということになりました。しかも午後、そのうえ気温は40度をとうに越えています。みんなだるくて動きが鈍り、声も満足に出てきません。そのうち班長たちが怒りだして、
「おまえたちのためにバレーをやってるのに、その態度は何だ!!」

 理不尽な・・・無茶ですよ、そんなこと言ったって。炎天下にバレーをさせられるより、隊舎で座学をしていた方がよほど嬉しい、と思ったのは私だけじゃなかったはずです。

 後期教育修了式の日、最優秀賞をもらったのは▽▽駐屯地の隊員で、「▽▽駐屯地 VS ○○駐屯地」戦は▽▽駐屯地に軍配があがり、みんな大喜びでした。

 教育中100キロの目標を達成した者には記念の自衛隊絵皿が渡されました(私も貰いました)。阿波踊りに参加したり、班長たちのバレー大会を応援したり、楽しいことはいっぱいありました。

 今考えても、教育隊ほど充実した時間はなかったと思います。支えあった友人、励ましてくれた班長、みんなの顔が今も鮮やかに思い出されます。

 修了式の後、1人1人がそれぞれの場所へと去っていく時。抱き合ったり握手したり、それぞれに思いを込めて別れました。かけがえのない時間を共に過ごした喜びを胸に、自分の行くべき部隊へと巣立っていきました
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