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国防に携わるすべての方々に敬礼!

 私の自衛隊

自衛隊・・・ある女性自衛官の場合

私の自衛隊 Index
ある空挺隊員のある日の訓練 自衛隊・・・ある女性自衛官の場合

 自衛隊・・・ある女性自衛官の場合
Written by AKO姉 & Edited by TOM中佐 
  • 女性自衛官(WACの場合)・・・不景気の世の中にあって、かなりの人気職業となった女性自衛官。高倍率で、なかなか合格・採用も難しいと聞く。
  • そんな、今や高嶺の花である「女性自衛官」について、AKO姉さんからミリタリーパワーズに貴重な体験をお寄せ頂きました。
  • カラー画像と画像コメントもAKO姉さんからのご提供です。

AKO姉さんのサイトは→こちら
  • 現役女性自衛官やこれから女性自衛官を目指して受験される方には先輩のお話として今後の参考に。自衛官OGの方には、懐かしい話として読んで頂ければ幸いです。
  • ここに記載されている文章および内容について、著作権は"AKO姉"さまにあります。よって無断転載無断使用無断複製二次利用厳禁いたします。
  • お断り:このページのセピア画像は記事の内容とは関係ありません。

 ◇教育隊のできごと
  • 小さい頃から自衛隊の行事に親しみ、制服姿や作業服姿の自衛官を見てきたせいか、まったく自然に自衛官への道を志しました。
  • T駐屯地第○教育連隊第3○6共通教育中隊第○区隊1班
  • こんな長ったらしい名前の場所で、本当に自分がやっていけるのか不安にかられながら、同じく女性自衛官となった先輩に話を聞いたり、地連の広報官に話を聞いたりして、それなりに覚悟を決めて、12人部屋の自分の居室へ入りました。
  • 同じ志を持つ者同志とはいえ、当然ながら初対面。
  • ぎこちない空気が目に見えるかのようにただよう居室の雰囲気に、一瞬、「あっ、道を間違った」と正直、思いました。
  • 当時髪が長かった私は、どうしても自分で髪を切っていくことができず、長いままで着隊しました。班長たちにも髪の長い方はいましたから、ちゃんと時間内に繋げば大丈夫、と安易に考えていました。
  • でも結局、朝のいちばん忙しい時間に髪を繋ぐ間も惜しい、と思うようになり、隊内に呼ばれた美容師さんたちによって、洗面所でざっぱり切り落としてもらいました。
  • 髪を短くしたつもりの他の子たちも、髪が耳にかかっている子はすべて断髪式となりました。
  • 入隊式までは、被服等の受領やネーム付け(針地獄)、基本動作の教練などをしました。
  • 敬礼の教練をしてようやく、「ああ、自衛官になったんだな」という実感が湧いてきました。
  • 入隊式では宣誓を命ぜられ、その様子を見た母親が「なぜか泣けてきたよ。」と言ったのが印象的でした。
  入隊式
  • 入隊式 が終わってしまえば、「お客様」の時間はおしまい。新隊員としての本格的な教練が始まりました。
  • 体力づくりも大切な訓練のひとつですが、それまで安穏と学生時代をすごして来た身体を、いきなり酷使するようなことはありませんでした。
  • 最初は歩くような速度での駆け足から始め、それを徐々にペースアップさせながら距離を延ばし、ゆっくり身体を慣らしていきました。
  • 中でも思い出深いのは「自分の銃」を区隊長より授与された時でしょうか。銃の重みに、その責任感の重さを感じました
  • 基本教練や座学、そして銃の分解・結合やガスマスク装着訓練、掩体構築など、いかにも自衛官らしい教育が増えていきました。
  • それにともなって「自分の時間」というものが減り、いかにしてその時間を効率よく使うかということについて、イヤというほど思い知ることになりました。
  • 戦闘服にアイロンをかけたり、洗濯をしたり、半長靴を磨いたり、やるべきことは山のよう。その時間を作るには、必然的に自分の時間を削るしかないわけです。次の集合時間までにしておかねばならないことはアレとアレと・・・!
  • それまで、のんびり時間に追われることもなく、グータラと過ごしてきたツケが、ここにきて一気に回ってきたような感じでした。
  • 夜はまだそれでもマシな方でしたが、朝になるともう小さな戦争です。起床から点呼、清掃を終え、次の集合までにもうわずかな時間しかない!そこで削れる時間といえば、食事の時間しかないのは当然です。食堂まで駆け足して、誰ともなく声がかかります。
  • 「時間がない、2分半で食べるよ!」
  • 班ごとの集団行動ですから、1人でも遅いと迷惑がかかります。もう必死で朝飯をかきこみましたね。その朝のクソ忙しい時間、水筒に水を入れながら、時間がない、どうしよう、と1人地団太を踏んでいると、他の班の友達が、
    「akoさんのそんなところ、はじめて見たよ。」
    と驚いていました。そんなに始終冷静に見えてたんでしょうか。毎日「時間がない」パニックの連続だったんですけどね…。
  • 前期教育中、戦闘訓練の前後に必ずやったハイポート。
  • 弾帯に引っ掛けてズルしたことしばしば。
  • 前期教育の訓練検閲で、教育連隊長による点検。
  • わざと低い声で話しかけてくるので、惑わされず大声を出せとの指示でした。

  入隊式
  • 入隊式 が終わってしまえば、「お客様」の時間はおしまい。新隊員としての本格的な教練が始まりました。
  • 体力づくりも大切な訓練のひとつですが、それまで安穏と学生時代をすごして来た身体を、いきなり酷使するようなことはありませんでした。
  • 最初は歩くような速度での駆け足から始め、それを徐々にペースアップさせながら距離を延ばし、ゆっくり身体を慣らしていきました。
  • 中でも思い出深いのは「自分の銃」を区隊長より授与された時でしょうか。銃の重みに、その責任感の重さを感じました
  • 基本教練や座学、そして銃の分解・結合やガスマスク装着訓練、掩体構築など、いかにも自衛官らしい教育が増えていきました。
  • それにともなって「自分の時間」というものが減り、いかにしてその時間を効率よく使うかということについて、イヤというほど思い知ることになりました。
  • 戦闘服にアイロンをかけたり、洗濯をしたり、半長靴を磨いたり、やるべきことは山のよう。その時間を作るには、必然的に自分の時間を削るしかないわけです。次の集合時間までにしておかねばならないことはアレとアレと・・・!
  • それまで、のんびり時間に追われることもなく、グータラと過ごしてきたツケが、ここにきて一気に回ってきたような感じでした。
  • 夜はまだそれでもマシな方でしたが、朝になるともう小さな戦争です。起床から点呼、清掃を終え、次の集合までにもうわずかな時間しかない!そこで削れる時間といえば、食事の時間しかないのは当然です。食堂まで駆け足して、誰ともなく声がかかります。
  • 「時間がない、2分半で食べるよ!」
  • 班ごとの集団行動ですから、1人でも遅いと迷惑がかかります。もう必死で朝飯をかきこみましたね。その朝のクソ忙しい時間、水筒に水を入れながら、時間がない、どうしよう、と1人地団太を踏んでいると、他の班の友達が、
    「akoさんのそんなところ、はじめて見たよ。」
    と驚いていました。そんなに始終冷静に見えてたんでしょうか。毎日「時間がない」パニックの連続だったんですけどね…。

 隊容検査
  • 隊容検査などで事前に「検査がある」と分かる場合と違い、座学中や訓練中に、こっそり班長たちが各部屋を見回るのではないか、という緊張は常にありました。
  • 俗に「台風」と呼ばれるものですが、いざそれが来ると、その状況たるや惨憺たるものでしたね。
  • 毛布は飛び交い、まくらは吹っ飛び、テッパチは転がされ、制服はブッ散らかり、はてはキャビネットまで横倒し。泥棒でもここまでしないだろう、というくらいの惨状でした。
  • 前期教育中に三度ほど「台風」に見舞われましたが、回を重ねるごとに「散らかり度」「イタズラ度」が上がって、しまいにはテッパチになみなみと水が張られ、その中にゆで卵が沈み、その上花まで生けられていました。三階の居室から、布団を放り投げられていた班もあったようでした。
 前期教育
  • 前期教育の最終段階である戦闘訓練は、想像以上に厳しいものでした。
  • 銃を持ったまま走るハイポートに始まり、匍匐(ほふく)前進の訓練など、ハードな訓練がこれでもかと繰り返されます。
  • 6月に入り、雨模様の日もあればカンカン照りの日もありましたが、自衛官に天気は関係ありませんしね。
  • 「踵(かかと)を上げるな!」
  • 第五匍匐で踵を上げずに進むのは難しく、何度か踵を蹴りつけられましたね。匍匐にばかり気を取られると、持っている小銃の先が堆土に埋まったり、照準を下げるのを忘れたり・・・よくドヤされましたよ。
  • 力尽きて匍匐が出来なくなった隊員は、男性の先任班長に弾帯を引っつかまれて、堆土の線まで引きずられていったりしました。
  • その苦しい訓練の最中、「伏せ」の姿勢へ入る時に足を痛めた時がありました。
    「おまえはそっちで見学してろ。」
  • 炎天下の中で必死に訓練を続ける同期たちを見て、これまでにない罪悪感を感じずにいられませんでした。訓練は辛くて苦しいけど、自分だけこうしているわけにはいかない、という気持ちでいっぱいでした。
  • だからこそ、班員みんなそろって、戦闘訓練検閲を終えた時の充足感は、たとえようもないほどの感動でした。
  • 感極まって涙が浮かんだのは私だけではありませんでしたから、皆も同じように感じたのだと思います。その時の記念の写真がありますが、みな戦闘服はヨレヨレ、汗まみれの泥だらけで、そして、いちばんいい顔をしています。
  • そうしたたくさんの訓練の中で、班員と班長のつながりは大切です。でも、なぜか私たちの班だけは、それが大変希薄に思えました。お局的存在の我が班長殿は、新米区隊長に色々とアドバイス(指図?)をする参謀的立場でした。他の班長のように、班員に自分から関わろうとする意識はかなり低かったように感じます。そればかりか、他の班員の行動や言動が悪いからと、なぜか私たちに当たるんですね。班員全員がそれを不満に思っていて、とうとう内務ノート(毎日班長へ提出するノート)に班長への疑問をぶつけた班員も出たくらいです。
  • 班長と班員が語り合い、楽しげに笑う、そんな姿は結局、私たちの班にはありませんでした。その代わり、班員同士の結びつきは否応無に深まりました。「班長に文句なんかつけさせない!」、まったく逆の意識で、私たちは団結していたように思います。
  • 休日も一緒に遊びに出たり、部隊の近くに実家がある班員のところへ、班員全員押しかけたり。最初こそぎこちなく、意思の疎通すら思うようにいかなかったけれど、もうそんな時期があったことすら忘れるほどでしたね。
  • 前期教育、最期の戦闘訓練検閲終了後のショット。
  • 皆ぼろぼろ。
  • 中列右から三番目が私。
  • 修了式の合間に撮った仲良しの同期との一枚。
  • 以前の制服も好きでしたよ。

 すったもんだ
  • すったもんだの前期教育が終わり、これまたスッタモンダで職種が決まって後期教育となりました。
  • 郷里へ帰るには会計になるしかない、との区隊長の言葉を信じて、会計職種になることを決めた私。このときすでに、
    「地連に行ってみないか。」との話が出ていて、もうわけも分からずにハイと返事をしていましたが、その地連について、このときは全くと言っていいほど何も知りませんでした。
  • 会計の教育先は、女性自衛官教育の聖地、▽▽駐屯地でした。
  • 本来であれば○○の会計学校へ行くはずだったのですが、女性自衛官増員にともなって居室の空きがなく、○○駐屯地と▽▽駐屯地に分けて教育をすることになったのでした。
  • とはいうものの、内容的に差があるわけではありません。だから、というか必然的に、「▽▽駐屯地VS○○駐屯地」という図式ができるのも無理からぬことでした。
  • 東北勢だけが集まった前期教育と違って、今回は北は北海道、南は沖縄から、同期たちが集まっていました。その言葉の違いたるや相当なもので、特に九州勢の話は、まるで外国語を聞いているようでした(九州勢にとっては、東北の言葉が外国語だ、と言われましたけどね)。
  • それに、前期教育と格段に違ったのは、個々の意識そのものでした。同じ釜の飯を食い、同じ訓練に精を出す者同志、あっと言う間に打ち解けました。前期で、仲良くなるまでに一ヶ月以上も費やしていたのが不思議なくらいでした。
  • ▽▽駐屯地では、同じく通信と武器の教育も行われていましたが、彼女たちが朝晩走るのと違い、私たちは朝は絶対に走ることはありませんでした。そろばんや電卓を扱うため、朝っぱらから運動をしてしまうと、指先が震えたり集中力が衰えたりするから、というのが理由だったように思います。
  • その代わり、二ヶ月半弱の教育期間中に、各人必ず100キロ走れ、と命ぜられました。訓練中に走る以外で、100キロです。どう計算しても、一日絶対3キロ以上を走らないと、目標は達成できません。
  • だから、休日に休みたいとか、どこかへ出かける、とかいう場合は、それ以外の日に何キロか「走り貯め」をしておかないといけないわけです。夏も本番になろうという関東の暑い陽射しの中を、同期と一緒に頑張って走りましたよ。みんな真っ黒でしたね。
  • 後期教育。
  • 野営前の装備点検。
  • 前列左から二番目が私。サイズの大きい戦闘服を支給され大変苦労した。
  • 野営中の一枚。
  • 前列左端が私。

 忙しさに
  • 忙しさにある程度慣れ、前期ほど慌しさを感じずに過ごす生活の中で、気持ちに余裕が出るのか、男性の班長や区隊長に思いを寄せる隊員も出てきたりしました。
  • かくいう私も区隊長に憧れましたが、ドロドロした愛憎が渦巻いてどうこう、というようなものは全然なく、
    「さっき区隊長に話しかけられたでしょー、いいなぁ!」
  • 「へへへ、いいでしょー♪」
  • というような、実にアッケラカンとした、別のいい方をすると「あんまり真剣じゃない」楽しみ方が主でしたね。
  • 野営訓練で区隊長付に私が選ばれたとき、同じく区隊長に憧れて「付」の座を狙っていた友達は、悔しがりながらも、
    「区隊長の半長靴、一足は私に磨かせてよね。」
    と言ってました。実に爽快なものでした。
  • その野営で、初めて夜間訓練を実施し、教育隊長がこう訓示されました。
    「今から5分後、あそこにある灯りのところまでたどり着いてみろ。途中、班長たちに誰何(すいか)されて捕まったらアウトだ。無事たどりつけたらご褒美があるぞ」
  • 戦車のキャタピラ跡が残る演習場で、それぞれに偽装を施した隊員たちが一斉に散っていきます。灯りの方向は丘になっていて、草が生い茂っているとはいえ、上から見下ろせば、うごめく隊員たちの姿が丸見えになりそうな感じでした。
  • なるべく灯りから離れながら遠巻きに進んでいくと、案の定、隊長の声が響きました。
  • 「おい班長、右手、右手から来てるぞ!そっちそっち、手前の草むらに二人くらい見えるぞ!」
  • 隊長が誰を見つけているのかも分からないのに、まるで自分の行動を言われているかのように錯覚し、かなり慌てた記憶があります。結局、誰何はされたものの捕まることはなく、私は崖から落ちそうになりながら、灯りのところまでたどり着くことができました。
  • 四十数名の隊員のうちで、ゴールできたのは私を含めて七人くらいだったと思います。あの時のご褒美は、ジュース・・・でした。結局みんなに配られましたけどね。あの演習場の名前は忘れてしまったのですが、そこから見た街の明かりの綺麗だったこと、今でも忘れません。
  • その夏は記録的な猛暑で、日中は40度に近い焦げるような暑さでした。朝っぱらからすでに30度を越しているため食堂の牛乳が傷んでしまい、おなかをこわす隊員が続出したりしました。
  • そんな中、水不足でトイレの水が出なくなったものだからたまりません。みんな休憩を見計らって隣の隊舎までトイレを借りにいかなければなりませんでした。
  • そういう凄まじい暑さの中、コンクリート製のテニスコートでバレーをやろう、ということになりました。しかも午後、そのうえ気温は40度をとうに越えています。みんなだるくて動きが鈍り、声も満足に出てきません。そのうち班長たちが怒りだして、
    「おまえたちのためにバレーをやってるのに、その態度は何だ!!」
  • 理不尽な・・・無茶ですよ、そんなこと言ったって。炎天下にバレーをさせられるより、隊舎で座学をしていた方がよほど嬉しい、と思ったのは私だけじゃなかったはずです。
  • 後期教育修了式の日、最優秀賞をもらったのは▽▽駐屯地の隊員で、「▽▽駐屯地 VS ○○駐屯地」戦は▽▽駐屯地に軍配があがり、みんな大喜びでした。
  • 教育中100キロの目標を達成した者には記念の自衛隊絵皿が渡されました(私も貰いました)。阿波踊りに参加したり、班長たちのバレー大会を応援したり、楽しいことはいっぱいありました。
  • 今考えても、教育隊ほど充実した時間はなかったと思います。支えあった友人、励ましてくれた班長、みんなの顔が今も鮮やかに思い出されます。
  • 修了式の後、一人ひとりがそれぞれの場所へと去っていく時。抱き合ったり握手したり、それぞれに思いを込めて別れました。かけがえのない時間を共に過ごした喜びを胸に、自分の行くべき部隊へと巣立っていきました

 地連のお仕事
  • さて、教育隊で充実した日々を送った後、配属されたのは地方連絡部(当時:2006年以降「地方協力本部」)。
  • 自衛隊で唯一、数と成果の概念が支配する場所です。女性自衛官の増員に伴って各地連(当時:各地本)に数人の割り当てがあり、私はその中にいたというわけですが、何しろそれまで女性と言うと事務官の方でしたから、当の地連にとっても、女性自衛官をどう扱っていいのか分からない様子がよく分かりました。だからでしょうか、最初のうちはマスコット的な意味合いが強かったように思いました。
  • 実際に外回りに出ることはなく、事務所にいて髙在生や一般の方に、募集要項や試験について説明する、というのが主なものでした。もちろん、そうじゃない時はお茶汲みやコピー、雑用と、まったく普通のOLと変わりない勤務内容でした。唯一違うとすれば、制服を着ていて、毎朝国旗掲揚をするくらいでしょうか。
  • 募集事務所にいた頃は、募集解禁の七月を過ぎると、よく高在生が事務所に訪ねてくるようになります。もちろん当時は「質より量」の時代なので、一般の志願者も多数やってきます。
  • 私は彼らにお茶を出して、自衛隊がどういうところかを説明し、受験を勧めるのが役目でした。自衛官を志している生徒ならまだしも、何となく広報官についてきたような不安定な生徒もいますから、話をするのもなかなか苦労しました。話し好きの生徒もいれば、口の重い生徒もいます。ついさっきまでゲームをやってたような不健康そうな顔の子や、そうかと思えばリーゼントの「いかにも」的な無職の子など、その個性も実に様々でした。そんな個性的な彼らを、よくこうして事務所へ連れてこれるものだと、広報官の手腕には感心するしかありませんでしたね。
  • 優秀な広報官は巧みな話術だけでなく、人を引きつける不思議な魅力があるんですよね。またそれぞれに得意な分野があって、○○広報官はツッパリ系を口説くのが上手いとか、△△広報官は高在生の願書を取るのが上手いとか、広報官の側にも個性がありました。
  • 事務所に来る子たちに優しく接するのは私の務めですから、笑顔と優しさを心がけるのは当然のことですが、それで、なぜか気に入られてしまうこともありましたね・・・。誰に聞いたのか、家まで電話してきた子もいましたし、毎日事務所へ通ってくる子もいました。それは恋愛感情というより、優しくしてもらえるのが嬉しい、というのが本当のところだと思います。家庭の事情が複雑な子に、その傾向が強かったように感じました。
  • その後、異動で地連本部に勤務することになり、援護課予備自衛官班募集課広報班、同じく企画班、と色々と移りました。
  • 予備自衛官班にいた時には召集訓練の表彰式支援や、予備自衛官名簿の作成などをしました。広報班の時には艦艇広報、体験搭乗、演奏会の司会など、様々な支援をしました。特に演奏会の司会は貴重な体験でした。募集事務所にいた頃には、入隊予定者激励会の司会しかしたことがなかったのですが、音楽演奏会の司会のときには、1,500人以上の観衆の前に立ちました。凄まじいプレッシャーでしたが、今ではよい思い出です。
  • 地連でのメインイベントといえば統一試験ですが、その際に試験問題や答案用紙を配るのは女性自衛官の役目でした(といっても三人しかいませんでしたけど)。
  • 筆記試験と適正試験の後にある面接試験では、面接補助官として生徒を引率したりもしました。もちろん女性自衛官の試験も同じように補助官をしましたが、女性自衛官を志す子たちを見ていると、何となく受けた子と、真剣に自衛官になりたい子とが、パッと見で分かりましたね
  • 真剣な子は服装も髪型もしっかりしていますが、そうでない子は服装が乱れていたり、髪の毛を結んでいなかったり、どこかに甘さがあるんです。未来の後輩が少しでも増えればと思いますが、最近の倍率ではなかなか難しいようです。
  • 合格が決まると、入隊予定者激励会までの間に制服の採寸をします。わざわざ仙台まで出向いて採寸の講習を受けたものですが、その時に、部隊で昔から採寸を仕切っている事務官の女性が、私とやり方が違う、と言い出したことがあります。
    「私たちは仙台でこう指導されてきましたので。」
    「あっそう、じゃあ教育を受けた方が正しいんでしょうね。」

    真っ向から私が言い切ったのが気に食わなかったのか、自分の知識に遅れを見たのかは知りませんが、事務官の女性は部屋から退出されました。広報官の方々は唖然としておりましたが、私ともう1人のWACはそのまま採寸を続けました。世代交代、というところでしょうか。
  • 入隊予定者激例会を終えると、いよいよ入隊となります。その入隊引率も何度かさせていただきました。電車を乗り継ぎ、入隊予定者を部隊まで送り届けるのですが、その時にふと、自分が同じように引率されて教育隊へやってきた時のことを思い出したりしました。たくさんの子たちが、緊張した顔で廊下を行き来する様は、まさに当時の自分と同じです。
  • 着隊後に最終的な身体検査をし、OKが出て晴れてお役御免となるのが普通なのですが、ある時、そこで事件がおきました。視力検査で引っ掛かり、ある女の子が不採用となったのです。試験を受けていて、というのならまだしも、教育隊まで来ておいて不採用と言われ、その子は泣きだしてしまいました。
  • 無理もありません、駅で家族やたくさんの友達に囲まれ、頑張るからねと約束して別れてきたのです。今更おめおめと帰ることなどできるはずもありません。もう1人の女性事務官の方と一緒に、何とか突破口はないものかと散々議論した結果、その子が運転免許を持っていたことに気付きました。免許の条件の項目には、「眼鏡の使用」と書かれてあるだけでした。それを見た瞬間、私たちは教育隊の先任のところへ駆け込んでいました。こうして免許が取れているんだから、訓練にだって絶対ついていけるはず、どうかお願いします。何度も頭を下げました。
     先任はしばらく唸っていましたが、
    「・・・分かった、しっかり頑張れよ。」
     私たちは飛び上がって喜びました!私も、事務官の方も、もちろん当の本人も、涙を流して。彼女は今も現役で頑張っています。
  • 航空自衛隊の松島基地へ入隊引率に行った時は、生徒たちを無事引率し終えた後、基地の広報の方が、ブルーインパルスを見学させて下さいました。飛行展示も見た事がないのに、間近で、離陸していくブルーの機体を見学できて、恥も外聞もなく興奮状態でした!広報の方のお気遣いが、本当に嬉しかったです。
  • 地連においては、たくさんの経験をさせていただきました。人の一生を左右する場所だけに、それはもう様々な出来事がありました。奔走する広報官、それに連動して忙しくなる地連本部。退官された方の再就職や、退官後の予備自衛官としての手続きも行う、一生自衛官と共にある機関です。たまに「一度は部隊で勤務したかったな」とは思いましたが、今は地連で過ごした五年半が、とても大切ですし、また誇りに思います。

 WACとして
  • 女性自衛官はプライドが高い、という意見がその当時大勢を占めていましたが、今でもそうでしょうか?
  • 確かにそのころ、厳しい訓練を終え、希望に燃えて配属されたけど、自分の思っていたような仕事とは随分違う・・・と、最初のころに感じたようなギャップに再び飲み込まれ、色々と考えさせられたのは本当です。「わたしはお茶汲みをするために、教育を受けたわけじゃないのよ。」というような気分になるのも無理からぬほど、そのギャップは大きかったと認識しています。
  • 私の場合、地連には地連独自のやり方と考え方があり、それを徐々に理解することで、自然とそのギャップは埋めていくことができました。プライドの点で言えば、満たされない部分があるのはどうしても仕方がないことです。どの仕事にもギャップというものは付き物ですし、後はそのギャップとどう上手く付き合うかによって、プライドに丸みが出るか、棘が出るかということだと思います
  • 私は「制服を着たお飾り」として扱われるのがひどくイヤでした。自分にはもっと色々な事ができるはずだし、また色々な事にチャレンジしたいと、常に思っていたからです。当時の地連が女性自衛官の扱いに慣れていないせいで、マスコットとして扱う以外に使い道が思い浮かばなかったのでしょうが、その状態がもっとも辛かったですね。こんなことをするために、教育隊で頑張ったんじゃない、まさに前述の通りです。
  • けど、新米自衛官ができる事なんてそうそう幅広いものではありませんし、ましてややろうと思って確実にこなせる仕事があるわけでもありません。仕事に慣れるうちにようやく、自分の立場を理解しました。やれることを一つずつ頑張るしかなかったんですね。
  • 友人たちは私が自衛官だということで、自衛隊の見方が少し変わった、と言います。自衛隊のニュースが出るたびに、そういえば・・・と私を思い出す、という遠方の友人もいます。しかし中には「自衛官は税金ドロボー」なんて言い方をする人もいました。
  • それを言ったのは私の元彼氏でしたが、友人の中に私を含めて三人も自衛官がいるくせに、どこを突付けばそんな酷いことが言えるのかと大層な大喧嘩をした記憶があります。一般社会で、しかも身近な友人ですらそんなことを口走るくらいですから、自衛隊の認知度はまだまだ低いのだなと思い知らされました
  • WACとして、地連の人間としての私はその時から、「社会に開かれた自衛隊」を望むようになりました。地連は部隊と一般社会との架け橋のような存在ですから、体験航海や駐屯地記念日などのイベントの時は張り切りました。

     制服を着た「WACの自分」が、私はとても好きでした
    退職して、それが過去のものになった今でも、その時の自分がいちばん好きです。制服が好きでしたから、返納させられた時は淋しかったなあ。
  • 少し横道にそれますが、WACというだけで当時、部隊で色々噂されたこともありました。たまたま街で顔見知りの自衛官と話していた、なんて一場面が、いつのまにか親密なお付き合いをしていることになっていた、というのはよくありましたね。その頃はWACそのものが少なかったので、注目度が高いのは仕方がないことなんだなあ、と思うと同時に、迂闊にヘンなことはできないなと空恐ろしくも思いました・・・

 現役引退まで、お世話になった方々とのふれあい
  • 現役自衛官はもちろん、父兄会、隊友会、後援会、予備自衛官、色々な方々と出会いました。
  • 地連の面々は大変個性が強いので、面白くもあり、また苦労もありました。
  • それでも、毎日楽しく過ごせたのは、皆さんに可愛がっていただいたからです
  • 今でも数名の方と、年賀状程度ですがやり取りをしています。遊びに行きたいな、と思いながらも、すでに当時の方々は色々なところへ転属なさっていたり、退官なさっていたりしますから・・・。
  • 泣いたり笑ったり、たくさんのことを学ばせていただきました
  • お世話になった皆さんへ向けて、心からありがとうと言いたいですね